前のシリーズで、OSPF を使えば、ひとつの組織の中で、リンクの状態を全員で共有して、同じ地図を持てるところまで来た。仕組みは、見えた。
けれど、世界は、ひとつの組織で出来ているわけではない。
あなたの会社の隣には、別の会社のネットワークがある。そこには、また別の運用ルールが流れている。会社が違えば、どの経路を流すか、どの方向を優先するか、どの経路は外に出さないか、ぜんぶ別の判断で動いている。
世界中のルーターを、ひとつの巨大な OSPF で繋いだら、どうなるだろう。なぜ現実は、そうなっていないのだろう。
技術の話なのか、それとも、もっと別の何かの話なのか。
ここで、その問いに正面から向き合う。先に、本話の手土産だけ置いておく。これは、規模の話ではなかった。
世界は、ひとつの経路情報空間ではなかった。


考えてみよう
本論に入る前に、5 秒だけ自分の頭で先に置いてみてほしい。仮に、世界中のすべてのルーターを、ひとつの巨大な
OSPFで繋いだら、何が起きると思うだろうか。動くか動かないかではなく、現実にそれが行われていない理由として、何が思い浮かぶだろうか。経路の規模? 計算の重さ? それとも、もっと別の理由?5 秒だけ、先に置いてから読み進めてほしい。本話の §1 で、その予想に揺さぶりがかかる。
1. 世界はひとつの組織で出来ていない
前のシリーズの最後で、OSPF が動いている全体像を 3 つの観測面で読み解くところまで来た。隣を見つける挨拶、地図を持ち寄る仕組み、帯域を物差しにする設計。仕組みは、ひととおり見えた。
けれど、その話の終わりに、あなたの手元には小さな渇きが置かれていた。
OSPFはリンクの状態を全員で共有できる。けれど、それが成立するのは、ひとつのASのなかだけだ。ASという別の組織の境を越えると、地図そのものを共有することができない世界が、すぐ次に待っている。
AS。前のシリーズの最後で、1 度だけ顔を出した言葉。本話で、その正体に向き合う。
その前に、先ほど 5 秒だけ置いてもらった予想を、もう一度思い出してみてほしい。世界中のすべてのルーターを、ひとつの巨大な OSPF で繋いだら、何が起きると思っただろうか。
多くの場合、最初に浮かぶのは規模の話だ。
地図が大きくなりすぎる。SPF の計算が重くなる。LSDB が膨らんでルータが処理しきれなくなる。
その答えも、間違っていない。けれど本話であなたが出会うのは、もうひとつ先の理由 — 規模の前に、そもそも世界は『ひとつの経路情報空間にならないように出来ている』という構造の話。
たとえば、こういう景色を思い浮かべてほしい。
あなたの会社のネットワークがある。そこには、自社の運用ルールが流れている。どの方向に経路を流すか、どの経路を優先するか、どの経路は外に出さないか — その判断を、自社のネットワーク管理者が決めている。
その隣に、別の会社のネットワークがある。そこには、また別の運用ルールが流れている。経路の決め方も、どの経路を外に出すかの判断も、まったく別の人が、別の方針で決めている。
会社が違えば、運用の方針も違う。
ここで、もうひとつ別の問いが立ち上がる。仮にあなたの会社が「うちのネットワークの中身は、隣の会社にも全部見せてあげる」と決めたとする。リンクの構成、経路の選び方、内部のすべての経路情報。隣の会社も「うちも全部見せます」と返したら、世界はひとつの経路情報空間になっていただろうか。
たぶん、その世界は実現しない。
中身を全部渡してしまえば、自社の運用ルールは隣の会社の中身の影響を受けやすくなる。隣がどう動くかで、こちらの判断もずれていく。「自分のネットワークの方針を自分で決める」という性質そのものが、内側を全部共有してしまった瞬間に、少しずつ薄れていく。
世界が現にひとつの経路情報空間になっていないのは、技術的に動かないからではなかった。経路の決め方を自分で決めたい組織がたくさんあり、それぞれが自分の管理範囲を持ちたい。経路情報を全員で共有することは、その性質と両立しない — そういう構造の話だった。
OSPF をいくら頑張って大きくしても、その方針の違いまでは飲み込めない。世界は、ひとつの組織で出来ていない。そして、ひとつの組織にしたくもない。
ポイント: 世界がひとつの経路情報空間になっていない理由は、規模の前に、もうひとつ先にあった。経路の決め方を自分で決めたい組織がたくさんあり、それぞれが自分の管理範囲を持ちたい、という構造の話。
OSPFをいくら頑張って大きくしても、その方針の違いは飲み込めない。
2. AS — 自分の運用ルールを自分で決める範囲
その『自分の運用ルールを自分で決める範囲』に、ネットワークの世界では名前が与えられている。
Autonomous System。略して AS。日本語では自律システム。
言葉の選び方が、すでに核心を語っている。自律 — 自分のルールを自分で決める。システム — ひとつのまとまり。AS とは、ネットワークの世界で『自分の運用ルールを自分で決める範囲』のこと。
ここで、ひとつの誤解をほどいておきたい。
AS は、技術の単位ではない。
ルータの台数で決まるわけでもない。IP アドレスの範囲で決まるわけでもない。AS の中身がどんな構造かは、外から見ると関係ない。AS を AS たらしめるのは、その範囲の中で『誰が経路の決め方を決めているか』という運用主体の単一性。
AS の中にいる側から見ると、AS は『自分の運用ルールが通る世界』。
AS の外にいる側から見ると、AS は『別の運用ルールで動いている世界』。
そして、もうひとつ大事な性質が出てくる。
AS の境では、AS の中身は外に見せない。
どのリンクがどう繋がっているか。どの経路を内側でどう運んでいるか。AS の中の細部は、隣の AS には共有しない。
これは技術の制約ではない。
§1 の最後で、もう一度、自分のネットワークの内側を全部見せた場合を思い浮かべてもらった。あの景色のとおり、内側を全部相手に渡してしまうと、運用ルールの自由度はそこで失われる。隣の AS が中身を全部知ってしまえば、こちらの方針も相手の中身の影響を受けやすくなる。
だから AS は、自分の中身を外には共有しない。
共有しないことが、AS が『自律』である条件のひとつ。


各 AS には番号が付く。
本シリーズでは、自社の AS を AS 65001、隣の AS を AS 65002、その隣の AS を AS 65003 として進める。番号の付け方そのもの — 誰が番号を割り当てるか、どの番号がどんな用途で使えるか — は、ここでは扱わない。本話で受け取ってほしいのは、ただ『AS には番号が付き、外から識別できる』ということ。
ポイント:
ASは『自分の運用ルールを自分で決める範囲』の単位。技術の単位ではなく、管理範囲の単位。ASの境では、内側の中身は外に共有しない / 共有させたくない。これは技術の制約ではなく、『自律』という性質そのものの帰結。
3. 世界は AS の集まりだった
ここで、視点を一度引いてみる。
自社の AS 65001 から見ると、隣には AS 65002 がある。AS 65002 から見ると、その向こうに AS 65003 がある。さらにその向こうにも、また別の AS がある。
世界全体は、こうしてたくさんの AS が境を接して並ぶ構造で動いている。
それぞれの AS は、自分の運用ルールを持ち、自分の中身を内側で完結させている。AS の境では、地図は止まる。相手の AS の中身は見えないし、こちらの中身も見せない。
これが、世界の作りそのもの。


現役の AS の数は、桁感としては数万を超えるオーダーで世界を構成している。具体的にいくつあるかの議論には踏み込まないけれど、『たくさんの AS が境を接して並んでいる』という構造そのものが、本話で腹に置きたい景色。
ここで、前のシリーズで身につけた OSPF の話に立ち戻る。
OSPF は、規格そのものとして、ひとつの AS の内側を担当するプロトコルとして設計されている。Interior Gateway Protocol — 直訳すると『内側のゲートウェイのプロトコル』、略して IGP。OSPF はその IGP のひとつ。OSPF の規格を読むと、最初の方に『単一の Autonomous System に属するルータ間で経路情報を配布する』という旨が書かれている。
OSPF が AS の内側に閉じる設計になっているのは、世界の作り(AS の集まりとしての世界)に沿うため。
OSPF はあなたの会社の中(AS 65001 の内側)では、リンクの状態を全員で共有して同じ地図を作れる。前のシリーズで体験した通り。
けれど AS 65001 の境を越えて隣の AS 65002 に地図を伸ばす発想は、OSPF の前提に最初から無い。AS 65002 は地図を見せてくれないし、こちらの地図を見せたくもない。OSPF は『地図を共有してもいい仲間同士』で動くプロトコルで、その仲間の範囲は AS の境までと決まっている。
だから世界中をひとつの巨大な OSPF で繋ぐ発想は、技術的に動くか動かないか以前に、世界の作りに沿わない。
AS の境を越える経路の伝え方は、OSPF とは違う発想で組み上がる必要がある。
ポイント: 世界は
ASの集まりとして動いている。OSPFは規格そのものとして、ひとつのASの内側を担当するIGPとして設計されている。ASの境を越える経路の伝え方は、OSPFとは違う発想で組み上がる必要がある(その具体は、次の話以降で受け取る)。
4. AS という管理境界が、OSPF の射程に終止符を打つ
本話の手土産を、自分の言葉で 1 度だけ置き直す。
前のシリーズで OSPF の動作モデルが手元に並んだとき、世界はそれだけで完結しているように見えていた。地図を全員で共有できれば、最短経路は計算できる。仕組みは、見えた。
けれど、本話で出会った景色は違っていた。
世界は、ひとつの経路情報空間ではなかった。
自分の運用ルールを自分で決めたい組織がたくさんあり、それぞれが自分の管理範囲を持ちたい。その範囲が AS — 自律システム。世界は AS の集まりで動いている。AS の境では内側のリンクの状態を共有しないし、共有させたくない。これは技術の制約ではなく、『自分の管理範囲は自分で決める』という方針の帰結。
そして OSPF は、その世界の作りに沿うように設計されていた。OSPF は AS の内側を担当する IGP として動き、AS の境を越えた経路情報の共有は最初から目指していない。OSPF ができることと、できないように作られていることは、世界の作りの中ではどちらも自然な帰結だった。
本話であなたの手元に残るのは、この 1 行に集約される。
世界は、ひとつの経路情報空間ではなかった。
この 1 行は、シリーズが扱う領域を区切る。シリーズの残りで、あなたはこの『ひとつではない世界』のなかで、AS と AS がどうやって経路を伝え合っているのかを、ひとつずつ観察していく。
ポイント: 本話で手元に残るのは「世界は、ひとつの経路情報空間ではなかった」の 1 行。
ASという管理境界の存在、世界がASの集まりで動いている構造、OSPFはその内側を担当している、を腹に置く。
AS という単位が、明日の現場で動き出す
AS という管理境界の存在は、見えた。世界が AS の集まりとして動いている構造も、見えた。OSPF は AS の内側を担当するプロトコルだった、までも腹に置けた。
明日、自分の手元に残るのは、次の 3 行だ。
「AS とは、自分の運用ルールを自分で決める範囲。技術の単位ではなく、管理範囲の単位」
「世界は、たくさんの AS が境を接して並ぶ構造で動いている。ひとつの経路情報空間にならないように出来ている」
「OSPF は規格そのものとして、ひとつの AS の内側を担当する IGP として設計されている」
明日、現場で AS という言葉に出会ったら、まず一旦立ち止まってほしい。技術の単位として聞き取る前に、それが管理範囲の単位だ、ということを思い出してほしい。AS 番号、AS の境、AS の中、AS の外 — どの言葉も、世界の作りの話をしている。
けれど、AS の境界では、もうひとつの問いが立ち上がっている。
AS の境では、何が起きるのだろう。AS と AS は、どうやって経路を伝え合うのだろう。OSPF はなぜ、そのまま AS の外には伸ばせないのだろう。リンクの状態を全員で共有する仕組みが、AS の境ではどこで成り立たなくなるのだろう。
その問いに、次のプロトコル — AS のあいだで経路を伝え合うために生まれた仕組み — が正面から答える。本話で受け取った『世界は、ひとつの経路情報空間ではなかった』を、次の話への足場として手元に残してほしい。
次は、AS の境で何が崩れるかから始まる。